Reozatugaku’s diary

今を生きる17歳です

fx高確率、窓埋めトレードしてみた

今日は王道アノマリーの窓埋めトレードしてみました。

個人的に結構やる手法で、投資家が週明けの利益を確定することによって乖離分が埋まる現象に賭けるってこと!

 

マーケットでトレードできるようになるのは、朝6時なのでタイに住んでいる身としては4時に起きるということw

朝も綺麗です。(5時ですが)

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とりあえずポンっ。

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利益確定は、金曜日の終値。

損切り10pipsという。

 

今回は成功ということです。

注意しないといけないのが、私たちは確率に賭けているので絶対はないということです。

 

眠いのでまた寝ますw

今週も爆益を!

 

世界一の投資家の恩師『ベンジャミン・グレアム』~生涯

グレアムの生い立ち

投資家でもあり経済学者でもあったグレアムは、億万長者の投資家ウォーレン・バフェットの育ての親として知名度を得ている。

バフェットはグレアムの構築した投資理論に心酔してグレアムを師とし、グレアムに教えを乞うためにコロンビア大学へ入学し(当時グレアムはコロンビア大学で教職に就いていた)、大学卒業後は「無給でいいから働かせてください」と懇願してグレアムの投資会社グレアム・ニューマン社に入社し、投資の腕を磨いたという。

このように、グレアムはバフェットの師として有名であるが、グレアム本人についてはあまり知らないという人も多いであろう。
グレアムは1894年にイギリスで生まれ、1895年に両親と共にアメリカに渡った。父は陶磁器店を経営していたが、グレアムが9歳の時に早逝する。家庭環境は一変し、グレアムは母親が不安におびえる姿を見ながら育った。この経験が、彼に財産の保全を深く考えさせることになり、後に「投資で最も大切なことは可能な限りリスクを軽減し、損失を出さないことである」とする、グレアムの投資理論の根本が培われた。

グレアムは勤勉な人物であり、投資家の中でも特に教養が豊かな人物であったと言われている。高校時代は家計を支えるためにアルバイトをしながらギリシャ語とラテン語を学んだ。グレアムの著作でギリシャやラテンの文学の引用が時折なされるのはこの影響である。

1914年にコロンビア大学を卒業したグレアムは、ウォール街で働くようになる。
初めは証券会社のメッセンジャーとして働いたが、まもなく企業分析をする役職へ昇進し、1917年にはすでに証券分析の腕が世に知られ、投資関係の雑誌に寄稿するまでになっていた。

1926年、グレアムはジェローム・ニューマンと共に成功報酬方式の投資会社を始めた。しかし1929年に世界恐慌による大暴落が始まり、グレアムの投資会社も大打撃を受けた。1932年にかけて資産は70%も減少した。もっとも、この資産の減少は特異的な事例ではなく、ダウ工業平均は74%。S&P500種総合株価指数も64%下落している。この時の経験も、グレアムに堅実な投資の重要性を認識させた。

彼の歴史的著作証券分析は1934年に出版され、1949年にはバフェットもバイブルとした賢明なる投資家が出版されたが、これらの著作もこの経験に依るところが大きい。

グレアムの真髄は「慎重さ」にあり

多くの投資家が投機的な投資を行う中でも、グレアムの投資行動は慎重を極めた。

グレアムの助手が投資銘柄を慎重に調査して提案しても、グレアムは銘柄の粗探しをするかのように不満な点を指摘し、反対することも非常に多かった。グレアムは完全に納得できる銘柄、すなわちあらゆる点を考慮したうえで損失を出す可能性が極めて低い銘柄のみに投資をした。

グレアムに言わせれば、自分で完全に納得できる銘柄でなければ、それは投機になるのである。以前の記事(https://360fx.info/activetrade)でも書いた通り、真の価値に比べて実際の株価が50%以下でなければ買おうとはしなかった。もちろん、そのほかにもいくつかの基準があるが、その基準を守った投資を何度も繰り返していけばよい結果が得られるという信条があった。

グレアムの投資のもう一つの特徴は、安全域というものである(安全域に関しては別の機会に詳述したい)。

これは、常に一歩の余裕を残しておくことである。その余裕があることによって、途中で思い通りに行かない事態が起きたときにも回復まで耐えられたり、場合によってはすぐに引き上げることができるというものである。この安全域への徹底的なこだわりは、市況の大きな変化に敏感に反応できなくなったり、本来ならば見つけられたかもしれない成長株を見逃したりするという間違いも生み出す。実際に、大きな上げ相場が始まった時にも、安全域へのこだわりによって慎重になりすぎてしまい、大きく稼ぐ機会を逃してしまうこともあった。そこで、後に弟子のバフェットは安全域を緩和して独自の投資を行っていくことになる。

しかし、慎重を極めたグレアムにとっては、たとえ安全域を設けることで儲ける機会を失ってしまっても、リスクを負うことが避けられるならばそれでよかったのである。この姿勢は、『賢明なる投資家』の1973年版でこのような一節によって表現されている。

「投資家は常に目前に迫る危機に備えていなければならない。1969~70年のような下落は、明日にも再び起こるかもしれない。あるいは、いったん暴落した後にそれ以上の暴落が待っているかもしれない」

1973年版が出版されて間もなく、1973年から1974年にかけて、世界恐慌を上回るほどの大暴落が訪れることとなったのは興味深い出来事である。

バランスシートを重視せよ

グレアムの理論の優れているところは、客観的で、説明しやすく、安全で、有利な投資理論だということである。

グレアムの理論とその他多くの理論を比較してみるとよい。主観的な理論、説明しにくい理論、リスクの大きい理論などが非常に多い。なぜグレアムの理論がそのように優れていたかと言えば、明確に表れた数字をもとに量的分析のみを行ったからである。その他多くの投資理論では、経営者の質、社会の動向、新製品発表に伴う企業の将来性などといった、把握しきれないものによる質的分析に頼っている。

グレアムはこれを嫌ったのである。もちろん、それらの質的分析によって爆発的な儲けを生み出す投資家も実際にいるが、そのような成功は投資理論よりも投資家本人のセンスに依るところが大きい。他の投資家が取り入れることはできない場合が圧倒的に多いため信用に値しないとグレアムは考える。

グレアムは全ての投資家が等しく利用できる投資手法を開発すべく研究を重ねた。その結果、投資概論として『証券分析』が著された。それは企業が発表する報告書などの公開資料だけを根拠にした投資手法であった。『証券分析』の中では様々な企業を実際に詳細に分析して見せ、財務上の問題点などを説明し、営業指針や財務指標を比較検討している。これによって企業の経営状態や財務内容の良し悪し、割高であるか割安であるかを正しく判断するための方法を具体的に示し、読者をバリュー投資の世界へといざなっている。また、この本では株式だけではなく、債権やその他の有価証券も取り上げられている。

もっとも、『証券分析』は邦訳にして800ページにわたる大部であり、方法論自体があまりにも精巧かつ緻密であったため、一般の投資家に浸透することはなかった。そこで、『証券分析』の出版後も研究は重ねられ、誰にでも使える手法を追求した結果、ついに非常に単純明快な方法を開発する。

それは、

株価が一定の基準よりも高いか低いかだけを見る

というものであった。

当時の通説では、経営力、成長性、技術革新、コスト競争力などの要素こそが正しい銘柄選択に重要とされていたことを考えると、異端の手法と言えるであろう。引退直前には割安株の基準が追加され、これによって『証券分析』で解説したような精緻な手法は必要なくなるかもしれないとグレアム自身が語っている。

『証券分析』の出版と大衆の反応をみると、ひとつの示唆が得られる。それは、今から約80年前のこの時代には今ほど投資手法は溢れていなかったにもかかわらず、それでもやはり大衆は手軽な手法を好んだということである。あらゆる投資手法が目白押しである昨今、『証券分析』におけるグレアムの投資理論を真剣に学ぶ投資家などほとんどいないのだろうと思わされる。しかし、そこにチャンスがある。なぜならば、投資ではその他大勢と同じことを学び実践するだけでは勝つ見込みがほとんどないからである。

浅学菲才な筆者はまだまだ学びの途上であるが、『証券分析』を含むグレアムの投資体系を深く学んだ「古典グレアム学派」の台頭の時がいつか必ず訪れると密かに信じている。

世界一の金持ち投資家の生い立ちを知らないと人生損〰(ウォーレン・バフェット)

みなさん投資家って知っていますか〰?

最近はビットコインとか株って有名になっていますよね。

 

”簡単に言うと価値をあがると思った商品を買って、上がったら売る”ということをする人たちです。まあそれだけではなくて、配当という年に投資した額の数%を投資先からくれることもあります。

 

港では最強の職業と言われており、配当だけで暮らす生活が夢という人たちが多いです(僕も含めてw)

 

そこで今日は、過去フォーブスで1位になった投資家のトップというウォーレン・バフェットの生涯を見ちゃいましょーう。

 

オマハの賢人バフェット

 

バフェットは1930年8月30日、米国のオマハに生まれた。1929年の世界恐慌から約10ヶ月後だった。

大恐慌 によって アメリカ の 株式市場 は 第一次世界大戦 の 戦費 に 近い 額 を 失い、 当時、 ユニオン・ステート 銀行 で 株 の ブローカー として 働い て い た 父親 の ハワード も 2 年 後 には 銀行 に 預け た お金 も 仕事 も 失っ て いる。 やがて ハワード は 証券会社 を 開業、「 極端 なくらいに 質素 な やり方 で、 しかし 着実 に 努力 する」 こと で バフェット 家 の 生活水準 を 中流 階級 にまで 押し上げる こと に 成功 する が、 バフェット は まさに こうした 混乱 の 中 に 生まれ、 そして 苦しい 中 で 懸命 に 努力 する 両親 を 見 て 育っ て いる。 こう 振り返っ て いる。 「子ども の ころ、 いい こと ばかりに 囲ま れ て い た。(…) 両親 から 財産 を もらっ ては い ない し、 もらい たく も なかっ た。 でも、 生まれ た 場所 と 時期 が すばらしかっ た。 いっ て みれ ば、 卵巣 の 宝くじ で 大当たり し た ん だ」

少年時代のエピソードには、 

6歳のときにはチューインガムやコーラを近所の人たちに売り始め、銀行口座をもう設立していた。

10歳の頃には父に連れられ、ゴールドマンサックスのシニアパートナーだったシドニー・ワインバーグに会うなど、金融に興味を持つにはうってつけの環境だったようだ。

11歳の時、図書館で『1000ドル儲ける1000の方法』を見つけ、読みふける。複利効果について知り、35歳までにミリオネアになることを宣言。

12歳で姉とともに初めて株を購入。父ハワードが下院議員になり、ワシントンDCに引っ越す。

13歳のときにはワシントン・ポストとタイムズ・ヘラルドの新聞配達を始めた。その後、思春期にはゴルフクラブなどを万引きするなど素行の悪い時期もあったようだ。

しかし、その中でも「現金の収集」を続け、15歳になる頃には2000ドル以上を貯め、農地40エーカーを購入。小作人を雇って農業もやったようだ。

17歳には友人と古いピンボールマシンを25ドルで買い、理髪店に置くというビジネスを開始。町中の理髪店に7、8台置くまでに拡大したほか、貯金も5000ドルに達する(現在だと500万円程度に相当)。

恩師ベンジャミン・グレアムとの出会い

高校を卒業すると、バフェットはペンシルバニア大ウォートン校に進学。しかし、父の下院議員の任期終了を口実に中退し、地元のネブラスカ大学に入学。その後、コロンビア大で『賢明なる投資家』の著者ベンジャミン・グレアムが教えている事を知り、大学院に入学。

余談だがバフェットはコロンビア大学の図書館にこもって、古い新聞を1929年からずっと目を通したそうだ。

卒業する時、グレアムのグレアム・ニューマン社で働きたいと頼み込むが、ユダヤ人でないという理由で(当時はユダヤ人の差別があり、大手投資銀行はユダヤ人を雇わなかったため、グレアムはあえてユダヤ人だけを採用していた)断られる。父ハワードの会社で株式ブローカーを経て、オマハ大学の夜間コースを教えることに。

24歳(1954年)の時、ベンジャミン・グレアムから誘いを受け、ようやく彼の会社で働けることに。しかし2年後、グレアムが引退。バフェットは会社のゼネラル・パートナーにならないかと言われるが、グレアムのいない会社で働いてもしょうがないと思い辞退した。

投資パートナーシップを設立

手元におよそ17万4000ドルのお金があったので、引退しようと思いオマハの一軒家を月175ドルで借り、身内を中心に資金を預かっての投資パートナーシップ「バフェット・アソシエーツ」を作った。

その後、他人からも運用を頼まれるようになりファンドは増え、やがて自己資産を含めて総額で50万ドル以上を運用。

相棒チャーリー・マンガーとの出会い

1959年、29歳の時、友人に連れられてチャーリー・マンガーと食事し、すぐに意気投合。毎日のように電話をかけあうようになる。

1962年、バフェットの預かり資産が400万ドル近くなり、11のパートナーシップと100人を超える出資者が集まったが、一人では手に負えなくなったのですべてのパートナーシップを解散し、「バフェット・パートナーシップ」という1社にまとめた。この頃から、のちに所有するバークシャー・ハサウェイの株を買い始める。

 

1964年にはアメリカン・エクスプレスが海水のつまった樽を大豆油として売ったスキャンダルにより株価が急落する中、株を買い続け、300万ドルを投じた。のちに莫大なリターンを生み出す。

バークシャー・ハサウェイの会長に

1965年、バークシャー・ハサウェイの取締役会において、取締役会長に選ばれた。バフェット・パートナーシップの資産は3700万ドルに達していた。

1966年、ダウ平均が神話と見なされていた大台の1000ドルを一瞬超え、バフェットが信条としていた割安な株がほとんど見つからなくなりバフェットはこれ以上パートナーシップの出資者を増やさないことに決める。

一方、バークシャー・ハサウェイの既存事業であった繊維事業の状況は厳しく、バフェットは保険会社のナショナル・インデムニティを買収することで、資本不足を解消しようとした。

1970年、バフェットは40歳になった。パートナーへの手紙の中で「私は今の相場には合ってないし、自分には理解できないゲームをプレイしようとして、これまでの立派な成績を損ねたくはありません。英雄としてやめたいのです」と述べ、バフェット・パートナーシップを解散。以降はバークシャーの経営に専念することとなる。

 

ワシントン・ポストへの投資

バフェットはメディアの持つ影響力に興味を持ち、新聞社を丸ごと買うためにいろいろな会社に投資したが、どれも失敗に終わっていた。そんな中、ワシントン・ポストの株を買い集めていく。

1974年、ワシントン・ポストのキャサリンとの信頼関係を強め、正式に同社の取締役になる。

1985年にはバークシャーの繊維事業には限界が訪れ、バフェットは工員を給料2ヶ月分の契約解除金とともに解雇し、設備を競売にかけた。

 

ブラックマンデーとソロモンブラザーズ

1987年10月19日月曜日、ダウ平均が508ドルという記録的な値下がりをした。バフェットの姉のドリスが破産。ソロモン・ブラザーズは7500万ドルの損失を被った。

1991年、ソロモンの国債部門の責任者ポール・モウザーが、90年から2年にわたり数度、財務省の入札ルール違反を犯していたことが明らかになる。ソロモン株は暴落し、グッドフレンドの辞任とバフェットが暫定的な会長に就任。

 

これも余談だが、そんな中、キャサリン・グラハムがバフェットをビル・ゲイツに引き合わせる。二人は会うのを面倒臭がっていたが、実際に会うと一日中話していた。

 

資産を財団に寄付することを発表

それまで、バフェットが非営利組織などに寄付を行うことはほとんどなかったが、2006年に所有するバークシャー・ハサウェイ株の85%(時価370億ドル相当)を時間をかけて多数の財団に寄付することを発表した(うち6分の5はビル・ゲイツの財団に贈られた)。

 

引用

伝説の7投資家

stockclip.net/notes/17

山田太郎ってよく見るけど誰?をお答えする

皆さんは山田太郎という名前を見たことがあるでしょう。

名前の例としてが多いですよね。

 

もしも日本に旅行に来る観光客に山田太郎って書かれているけどだれって聞かれたら、皆さんはどう答えるつもりですか!!怒w

 

答えられないようでは、だめですよね。(全然大丈夫ですし、聞かれることがまずないです。)

 

とりあえず皆さんがこのサイトに来たのはそれを知りたいからですよね。

説明しましょう!

 

太郎は長男「輩行名」

 まずは「太郎」。「太郎」は本来、長男を意味する「輩行名(はいこうめい)」でした。輩行は「兄弟」のことで、輩行名は「太郎」「次郎」「三郎」といった具合に、兄弟の出生順を表す名前のこと。

「江戸時代以前から、本名とは無関係に長男が『太郎』、次男が『次郎』と名乗り、その家の何番目の子かを表す慣例がありました。昔話などに『太郎』がよく登場するのはそのため。次男や三男よりも多い長男を表す『太郎』は、人々に最も親しまれる名前だったのです」

 人々になじみのある名前だったことから、記入例に広く使われるようになった「太郎」。それでは「山田」はどうでしょうか。

 2018年8月時点で、日本において最も多い名字は「佐藤」で全国に約200万人。以下2位「鈴木」(約175万人)、3位「高橋」(約145万人)と続きますが、「山田」は12位でトップ10にも入っていません。

しかし、全国的に見ると、佐藤や鈴木は分布に偏りがあります。佐藤や鈴木は東日本に多い一方、西日本ではトップ10圏外の地域も少なくありません。また、田中のように西日本に多い名字もあるのです

 その点、高橋や山田は地域的な偏りがなく、全国に満遍なく分布する名字といいます。しかし、山田よりランキング上位の名字があるにもかかわらず、山田が選ばれたのはなぜでしょうか。

「最も多く名字に使用される漢字は『田』『野』『川』『山』『谷』の5つですが、この漢字だけで構成される上位の名字は山田だけ。つまり、日本全域で親しみを感じる人が多い山田と太郎を組み合わせた『山田太郎』は、誰が見ても『普通の氏名』に見えることから、記入例に広く使用されているのです」

 ちなみに、NHKの調査によると、「山田太郎」が使われ始めたのは、山田太郎さんの歌「新聞少年」がヒットした1965年頃とされているようです。